天津飯に今一つしっくりときていない。天津飯と言っても、三つ目の人ではない。もっとも、三つ目の人にしたって、その活躍ぶりにしっくりときていないのは同じだが。真面目なキャラクターというのは扱いづらいなぁと思う。天然ボケでなく、理性的なマジメは突拍子もないことが出てこない。故に傍観者と化してしまう。どこかの会議みたいだ。

それはさておいたとしても、天津飯。ご飯とあんかけが分離している。汁じゃないし、卵のバリアもあるので染み込まない。どうにもこうにもハーモニーが取れないのだ。もっと最初の方にあんとご飯を混ぜなさいと言われるかもしれないが、何か別の料理になっていっているような気がするし、これまたあんが勝ってしまって……。
単に私が真の天津飯に出会ってないだけかもしれない。運命の出会いを待ち望んでいるが、自分では天津飯頼まないしな。子供の方は天津飯がいたって好きだ。その辺がよくわからない。あのハーモニーで何故。

で、天津飯はどこをどう足掻いても『テンシンハン』と読んでしまう。一切迷いはない。無意識に読めるというのは便利だが、無意識故にある時ふっと脳の記憶のルートにノイズが入っただけで読めなくなりそうな気もする。
我が家の長女monmonも平仮名・カタカナと幾つかの漢字を読めるようになってきた。一度読めるとパッと広がるものがあるのだろう、いろんなものを読んで理解しようとしている。
が、この「読む」と「理解する」の隔たりがなかなか厄介だ。自分の場合、中学校の頃に新聞が読めなくて悔しかった。それなりに文章は読めるのだが意味がわからない。その上に出てくる難解な用語、言い回し。新聞をちゃんと読むには前知識がたくさん要るということに気付いていなかった。もっとも、理解できるようになっても何がしかの欲求不満は残っている。何故ならコトの起承転結のうち、起か起承ばっかりを見せられ、政治事などの長期のものについては転転転転転転転転転転転転転転転……ばかり。もはや起承がわからない。どんな情報もそんなもんかもしれないが、新聞の紙面で天津飯の美味さを的確に語りきった記事などは寡聞にして知らない。

つまりそういうわけでmonmonが絵本を読むことに凄まじく目覚め、寝る前の読み聞かせを強烈に迫ってくるようになった。「ぼくにげちゃうよ」「なりたいものだらけ」「どうぶつどどいつどーなっつ」「じごくのそうべえ」「なつのいちにち」「やさいさん」「へんなかお」「アイスキッズのぼうけん」「でんしゃにのって」「しりとりのだいすきなおうさま」「たからさがし」などなどなど。これを怒涛と言わずして何になろう。読めることでこんなに絵本に惹き付けられるのかと、いささかの驚きだ。
次女のrinrinも隣で並んで素直に読み聞かせを聞いていたりする。姉と一緒が楽しいらしい。実際に読んでみると、小学校一年生のmonmonでは知らない言葉も多く、本当に内容を理解できるのはこれからだが、まあ大体楽しければいいのだ。新聞とは違う。

ただ一つ思うのは、読み聞かせできる程の時間に仕事を終えて、ちゃんと帰ってこなくちゃならんということだ。残業?それが何だって言うのさ。

絵本小荷物
絵本の詰まった小荷物が届くのを待ちわびている……雰囲気を出す子