何がしかの里的な旅路で
もしもこの情報社会が平穏無事にとてつもなく長々と続いていけば、スマホ(というものもとっくに消滅しているだろうけど)みたいなもので、いつか自分の家系をあっという間に調べることができるようになるのではなかろうか。例えば父の母の父の母の母の父の母の……と10代前のあいつはこんな顔でどんなことをして人生を生きたか、とか。15代前のこの人を有名人のあの人に置き換えたとしたら、私の顔はこうなっていたはず……とか。故人の個人情報がどこまで守られなきゃならないのかよくわからないが、さながらインターネットみたいに繋がった生命の網を眺めるみたいで面白いに違いない。
翻って今この現在。他の国と違って、しっかりした家系図を保有している家の方が、日本には少ないんじゃないかな、と思う。その代わりと言っては何だが、戸籍というものがある。これは近年に限定されるが過去に遡って自分のルーツを探れる手法の一つだ。そして、本籍地。今は自分の好きな地に本籍地を移す人も多くいるだろう。遠いとちょっと不便なところもあって、本籍地を移したい気に自分もならないわけでもないが、今だ曽祖父の時代から本籍地は変わっていない。
だから、旅をする目的に『本籍地を目指す』というのも加えることができる。本籍地が遠くにある数少ない利点の一つだ。で、先日家族共々行ってきた。自分から行こうと言い出したことは一度もないのに、私自身はもうこれで3回目だ。それ自体何かしら縁がまだ残っている証左なのかもしれない。まあ、風光明媚な土地で元々人気はあるわけで、普通に行きたい場所でもあるが。彼の地に着いてひどく懐かしい感じもしたのだが、3回目だし、ただただ久しぶりなだけだった。一族の記憶ってなものがDNAに刻まれているわけでもなし、大体もたざるべき記憶が自分の中にあるってのも気持ち悪い……が、デジャヴの感覚はいたって好きだ。よくわからん。
海、港、島、鳥、人そして飯。具体的に子どもにフォーカスされた遊びはないけれど、長女monmonは純粋に新幹線と旅行とホテルと温泉と漣を楽しんでくれたみたいだ。だけでなく、ホテルの1階のお土産物屋で思いっきり無関係なおもちゃもねだられた。もっとも彼女の中では、渚で無意味なまでにはしゃぐ若者のごとく、海に対してはじけんばかりのワクワクが妄想的にあったようだが、まだ暑くはない時季なので、いささか寂しげな砂浜で哀れな貝殻や丸まったガラスの欠片を探す程度に終わってしまった。もっと暑くならんとね。もっと大きくならんとね。
それから次女rinrinはギリギリ1歳足らずだから、目新しい景色が珍しいだけで、後はほとんどベビーカーに縛りつけられていただけ。少々気の毒なくらいだ。
今回の旅に絵本の出番はなく、お休み状態。むしろ、町を歩いていたら、ほんの少し絵本の中のような気分がした。そういうトコロだ。
どうなのだろう? 彼女らが大きくなったら、また何かの拍子にこの地を訪れる時が来たりするのだろうか。偶然だけで撚られた見えない家系図の糸をゆっくりと遡りながら。デジャヴを感じるだろうか。いや、既視感というか、もう既視だけど。
そんな先のことは水平線よりも遥か遠く、蜃気楼さえ浮かんでいない。
コメントを残す