2025年のドラえもん映画『のび太の絵世界物語』。
公開後の様々な批評で実に好評を博している。
私も次女rinrinとしばらく前に観た。ストーリーは覚えている。
なるほど、のび太のパパが放った締めの言葉も分かる。
だが、頭に残って心に残らないとはこういうことだろう。
何故にこんなことになってしまったのか。

あれは陽気のある3月の日だったが、まだ冬服をしまうタイミングではなく、コートを羽織って映画を観に行った。諸事情があり、初めて行くやや遠いショッピングモール併設の映画館だった。またさらに諸事情があり、自宅に程近い駅付近に車を停め、そこから電車でわざわざやってきた。
思ったより気温は高く、モールの最寄り駅からずっとコートを脱いで持ち歩いていた。そしてモールの中もまた暑い。ドタバタと小腹を満たし、ギリギリ時間に間に合い、シートに座って開幕を待つばかり。押し付けの宣伝が今まさに始まろうというところ。
(そういや車のキーをコートのポケットに無造作に入れてたな。一応、今一度確認しとこうか)
そう、キーはそこになかった。両方のポケットをまさぐるが、ない。
無意識にカバンに入れたのだろうか? まさぐっても、ない。
パンツのポケット、ない。再びコート、ない、三度カバン、ない。ない、ない。
考えられるのは、駅からモール、そしてモールの中でいつの間にかキーがポケットから滑り落ちた可能性。モールでならそのうちインフォメーションに落し物が集められて、すぐ見つかるかもしれないが、駅からの道中だったら暗くなるまでが勝負になる。

映画は始まってしまった。どちらにしても映画が終わってから行くしかない。私だけ映画館を抜け出すのは、我が子を不安にさせるから無理だ。ならば、まずは映画を楽しもう。
だが、頭の中は最悪の事態をシミュレートし始める。キーがしばらく見つからなかったら? 我が家の車のスペアキーは家の中で紛失中だ。それでも家に帰って探せば何とかなるかもしれない……が、私は今日車の中に家の鍵を置いてきた。そして、他の鍵は封印された家の中。両親に預けた鍵も今行方不明。つまりは誰も家に入れない。
手段としては車の窓ガラスを割って家の鍵を取るか、家の窓ガラスを割って、家の鍵を取得し、さらに車のスペアキーを探す。まあ、後者しかない。いや、両親の家を捜索して行方不明の家鍵を探す方向が最も破壊活動は生じない。しかし見つかる気がしない。いつ、それを判断するか……。日が暮れるまで後数時間。家の鍵を複数人がちゃんともっている体制作りを怠っていたツケがこんなところに。
脳はグルグルと回る。対策と後悔と怒りと焦りその他諸々を綯い交ぜにしながら。一方で泰然自若として映画を楽しもうとする気持ちを奮い立たし、スクリーンを観ることに集中する。が、目をずっと開けていられない。回り続ける脳内回路が、新たなる視覚的刺激を拒否する。
故に映像として観たものは三分の一くらいだろう。だが、音声でストーリーは掴める。ただ、心ここにあらず。
そんな時、一つ閃いた。一度、映画が始まる前に隣の席にコートを置いた。もしかしたらもしかしたら、その時に座席の隙間に滑り落ちたのでは? 非常に楽観的だがそうあって欲しい。しかし、既に今はその隣席に人が座っている。上映中にその下を中年がゴソゴソやり出すことは避けたい。あまりに怪しすぎる。だから、気付かれぬ範囲で足先を隣の座席の下に差し込み、何か感触が無いかを探ってみた。が、何もない。ないからなのか、届いてないのか。確かに実際のところ、ほんの数センチ、足先が座席下に入ったに過ぎない。

長い、長大と感じずにはいられない映画だった。エンドロールが終わり、感動のあまり動けないふうに見える私。しかし、ただただ、隣席の人が去っていくのを待っていた。そうして、もう数人しか館内にいなくなった頃、私は満を持して隣席の下に首を突っ込んだ……暗くてよく分からないが何もなさそうだった。焦りが増してくる。一縷の望みを託しスマホのライトを差し込む……そこに、そこに、あったのだ!
私は座席の間に突っ伏し「良かったぁぁぁぁ!」と叫んだ。それはしかし、掃除に来たスタッフがどう思おうとも、断じて映画の感想ではなかった。

『もし世界の終りが明日だとしても私は今日林檎の種子をまくだろう』
好きな言葉なのだが、私の小さな心ではとても追いつかないことを実感した。そんな、春の一日だった。何も起こってない、誰の目にも見えない危機がそこにあった。

絵本にそんなささいな危機の作品はあるだろうか? ふと思い出したのは『大ピンチずかん(作:鈴木 のりたけ、出版社:小学館)』だった。絵柄は私の好みではないけれど、今回ばかりは内容にグッときた。

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チップスター犬 ※本編とは何の関係も有りません