ある時「お父さん、フルーチェいらない?」と我が子に訊かれた。
あまり興味なさげに「いらない」と答えはした。おっさんぶって。ただ、私の心の中ではその甘美な言葉がいつまでも鳴り響いていた。フルーチェ……チェ……チェ……。その御姿さながらに気持ちがプルンプルンしてくる。子供は何故にあれが好きなのか? それほど贅沢できなかった私の子供の頃ならいざ知らず、時はもはや令和。それでも人間の魂を根底からプルンプルンさせるのだから、フルーチェは実に偉大だ。

だが、かように遥かな昔からあるものたちが、何でもかんでも得心できているのかというと、そうとは限らない。あんまん。私は彼の立ち位置が未だによく理解できない。青コーナーの肉まんサイドなのか、はたまた赤コーナーの饅頭サイドなのか。その微妙さは、時折公園で見かける例の健康器具のようだ。目茶苦茶健康促進の道具でもないが、さりとて遊び道具にもならない。まあ、それはさておき、コンビニでは肉まんと肩を並べてランデブーを気取っているが、隠れた饅頭党員なのではないかと、私は疑念を抱かずにはいられない。
あれほどコンビニに常備されているので(実はもうされていない気配もあるけど)それなりに売れているとは思うのだが、正直買っている人を見たことがない。もしも、そんな人がいたら、通報されるほどに不審者行動だけれども、購入の意図を尋ねてみたい。温泉場の酒饅頭は逃さず買うが、コンビニのあんまんは買わない。私はそういうタイプだ。

だが、昔いかり豆は好きだった。というか、私の父が夜に買って帰って来るのはのしいかかいかり豆だった。単に酒屋に寄って帰宅するからだけなのだが、子の食癖は親の行動パターンに影響される典型的な例だろう。今は食べない。あんな中年的つまみを子供の時食べて、中年になったら食べない。奇妙奇天烈なことだ。そしてついこないだ、恥ずかしくもいかり豆はそら豆であることをやっと知った。いや、そら豆は焼きが一番だ。揚げではなく。いかり豆には申し訳ないが。そんなこんなで今度いかり豆を子らに食べさせてみよう。気に入るかな? 気に入らねえだろうなあ。

というわけで。ラノベにせっせと読み込む長女monmonを尻目に、次女rinrinはちょいと絵本読みを復活させている。『さかさことばでうんどうかい』を久々の読み聞かせでやった。うーん、良い、良いのだが、少し強引さが目立つ。一つくらいは大人を唸らせるほどの秀逸なやつが欲しかった。まあ、読み聞かせている側の勝手な要求だが。
そしてさらに『わらしべちょうじゃ』である。貧乏人の成り上がり方をいつも忘れてしまうのだが、ついに記憶した。……したのはいいが、こんなんだったっけ? 交換がやや強引な上に割とすぐ長者に。もっとこう、三歩進んで二歩下がるような長い展開があったような気もしたのだが。いや、実はいろいろレパートリーがあるのかもしれない。稀にやらかして、結局元の貧乏人に戻りましたとさ、めでたしめでたしみたいなのも。ないか。

肉まん5G……いや電波ではなく、湯気らしい