こんにゃくを何かの例えで使うと、なかなかポジティブな方向が現れて来ない気がする。その食べ物にしては類稀な柔軟性をもってしても、それを賛美する型にはあまりお目にかかれない。何だろう、『にゃく』の部分が根菜系にしては質実剛健さを見失っているせいかもしれない。見事なほど柔らかさを表現しているには違いないのだが。
個人的なおでんランキングでいっても、すじ、たまご、じゃがいも、大根、その次にこんにゃくである。その下は練り物全般となる。微妙な位置なのである。秀逸な練り物には、まくられる危険すらある。そのこんにゃくも、稀に凄まじく美味いものに出会ったりするから不思議だ。

食べ物と言えば次女rinrinはちゃんとご飯を食べてくれない。長女monmonに釣られてお菓子をバンバン食べてしまうせいもあるが……。いささか悩みの種ではある。なのに、絵本の『いただきますあそび(作・絵:きむら ゆういち、出版社:偕成社)』をもってきては読んでくれと言う。少しは真似してくれたらいいのに。まあ、同じく『いないいないばああそび(作・絵:きむら ゆういち 、出版社:偕成社)』ももってくるので、単にしかけ絵本を楽しんでいるだけか。
一方、長女はと言えば『わたしがこぶただったころ(作・絵:梅田 俊作、梅田 佳子、出版社:岩崎書店)』をこの間もってきたので読み聞かせをした。優しげな絵の中に、思い至るフシが幾つも出てくる。子供と大人は時間も空間も世界も割と違う。まるで二つの世界が同じ場所に重なっているみたいに。ただ、生活するという観点においてやや大人の世界が優勢なために、どうしてもそちらに合わせないといけない。うーん、こちらが読み聞かされているような気分だった。ラストの展開は私好みだ。

先日もその次女がふすまやら壁やらに、色鉛筆や水性ペンで落描きしてくれた。本人はどや!の満面の笑顔だったが、えらいことしてくれたとつい怒ってしまった。白くて描きやすそうな広いふすまや壁、手には鮮やかな色を描き出す物。芸術家のウズウズ衝動が止まらない。それはわかる、わかるが後始末と、これから先も同じことを繰り返されてはたまらないという大人の事情で叱責してしまう。ジレンマだ。
そんなことがあったので、100均でお風呂の壁に描ける、お湯で落ちるクレヨンなるものを買ってきてくれた。入浴中に思う存分お風呂の壁にやってくれる分にはまるで問題ない。……が、ご機嫌で歌いながらいつまでもいつまでもいつまでも長女と次女は描いている。もはや大人の都合で早く洗え、お湯に入れとは言えない。しかし、待ちが長い。長過ぎる。ジレンマだ。

かようにお風呂クレヨンには絶賛ハマリ中だが、長女がハマっているのかいないのか今一つわからないのが『たまごっち』。サンリオ版だ。往年のがリニューアルして割と美しいカラー液晶で蘇っている。見たところTN液晶だが、左右の視野角は広いし発色もいい。一昔前のケータイのサブディスプレイ(折り畳みケータイに付いていた、外側のディスプレイ)よりも綺麗だと思う。
だが大体、金魚を飼いたいとのたまうくせに全く世話をしない長女のことだ。不安はあったがたまごっちの世話も今一つ頼りない。私やパートナーtantanの補助でどうにかこうにか世話している毎日だ。
ある日、長女が叫んだ。
「こんにゃくになってる!」
お墓だった。ご臨終だった。まあ、死と墓の概念が強く結びついてなければ、それはどう見てもこんにゃくだった。
それから何人もこんにゃくと化している。全く。
また一つ、こんにゃくという響きのネガティブオーラが増した気がして、ちょっと悩ましい日々だ。

こんにゃくに足を描いたら、キャリーバッグになってしまった……