長女のmonmonがもう幼稚園を卒園である。あっという間、まさに光陰矢のごとしだった。光陰、それは時間のことであるけれども、私には我が子そのもののことのようにも思える。光と陰がはっきりと形作られている。走り回り、泣き、笑う。さながら飛びすさぶ矢のよう。
これからは小学校。大人と子供のせめぎあい、幾多の欲求と願望と衝突で構成された新しい世界だ。ここからは自分の作る社会だ。その後も幾つも現れてくる。我が子に覚えておいて欲しいのは一つだけで、どれもこれもとてつもなく小さい社会で、その外には無数の世界が広がっているということ。たとえ行き詰まったと思ったって、それは花園迷路のたった一つの行き止まりに過ぎない。

さっぱり話は変わり、百人一首っちゅうもんがある。蝉丸は小倉版でも他のでも出てくるのかな、とにかく言わずと知れた坊さんの一人だ。坊主めくりでは失礼にもそもそも坊さんがハズレとして扱われているが、我が一族において蝉丸はさらにまずいものと昔から見なされている。勿論、蝉丸本人の偉大さとは何の関係もなく、現代においては悲しいピエロの役回りだ。
その蝉丸も、反対に良きものとして扱われる地域もあるらしい。変な感じだがよくよく考えれば、ジョーカーでも花札の鬼札でも時に強力な味方になる。両極はやはり通じあっているのかも知れぬ。
百人一首は一種のかるただが、我が子monmonのかるたにおける負けん気は実に激しい。だが、自分の中にもその悔しさの残滓ははっきりと思い出される。かるたと言うのは一見、大人と子供に至極平等なのだ。体力の差や知識の差はいらない。早く見つけて先にタッチする、それだけなのだ。ボクシングで考えてみよう。相手が避けるかガードしなければパンチは確実に当たる。どちらにも平等に殴る権利はある、はずなのだ。だが、実際は差がある。それはほんの僅かな差かもしれない。だがそのために自分のパンチは決して当たらず、相手のパンチだけが無情に自分に突き刺さることもある。その時に沸き起こるあまりの無力さ、悲しさ、悔しさ、屈辱感。まさにかるたで感じるのはそれなのだ。
つまりは頑張って相手を上回る実力をつけるしか勝つ方法はない。しかして、恐ろしくかるたの実力がつき過ぎ、私がmonmonにどうしても勝てなくなったら、それはそれできっと私の悔しさは計り知れないだろう。それがまた少し恐ろしい。

そしてもう一つはコマ回し。教えても教えてもmonmonは回しきれるところまで到達しなかったが、幾日か経つと知らぬところで回せるようになっていたらしい。この突発的な進化というか習得も自分によく似ている気がする。寝ているうちに教えが咀嚼されるのか、天の啓示でもあるのか、ある時に突然発現する。こういうのは教える側にとってはなかなか教えがいのないタイプだが、まあそれなりに成長していくので心配はない。
何故、子供がコマを好きなのだろう? それは回って回って安定することがしっくりくるからなのかもしれない、と思う。大人になればバランスを保とうとする時、落ち着きを取り戻そうとする時にまず立ち止まる。動きを止める。しかし、コマは遅くなるほどバランスを崩して安定しない。むしろ回れば回るほどに安定し、そして回転と共に描かれていた模様がどんどん混ざりあって、また見たこともない新たな模様を生み出していく。子供とコマは同じエレメントで出来ている。
それが親として学ばせてもらったことのような気がする。

cotton_candy
綿菓子ってのは力一杯回さないと上手くいかない