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After the carnival……

祭りと絵本には共通点があると思う。そこにあるのは非日常的なワンダーランド。ワクワクが詰まっていて、色彩に溢れている。そして、平穏にも満ちている。勿論、切実な問題を題材にしたものや昔話がベースになったものはそういう範疇にないことも多々あるかと思うけれど、大まかに見れば少なくとも私にはそんな気がしている。

今住んでいる土地では、祭りというのは秋祭りだ。幼少より夏祭りばかり経験してきた私からすると、暑さほとばしる熱気ムンムンの中で催される祭りに憧憬を感じる向きもあるけれど、秋祭りでは何といっても天気がいい、気候がいい、稲穂は頭を垂れている。豊穣を祝うには真に相応しい。夏祭りは雨が降るか降らないか、それがいつだって気が気でならないのだ。

この地では、太鼓台が出る。町内の子供が一度に数人乗り、太鼓を鳴らしながら町を練り歩き、地元の幾つかの神社に奉納する。秋空に響く太鼓の音はやたら単調だが、単調であるが故に平和的で牧歌的だ。鐘はない。引き回す際の掛け声もほとんど今はなく過去のものだ。その代わり、音頭というか囃子がある。マイクで町のご老体が唄い、太鼓台の上に設置された拡声器から流れる。唄わないときは、MP3プレーヤーからその昔に録音したらしき歌が流れる。唄は地元の名物・名所を練り込んだ感じ。伊勢音頭のようなものも流れているように思う。
これもまたのんびりとした感じだ。それでいて幾分現代テクノロジーも支えられている。

だが、これでいいのかとも自問する。ご老体がやがていなくなれば、録音された歌しかなくなる。しかしその音質は恐ろしく心もとない。そもそも、それらの歌を後世の者がちゃんと唄えるように伝えなくてはならないのではなかろうか? いや、伝統を頑なに正確に伝えることだけではない。ともすれば新作の歌があってもいい。我が地を自慢げに唄う、皆で唄う、胸張って唄える、そういう精神的なものを伝えなくては、とまあ、勝手ながらに感じる。

しかし、どこを探しても教えられる人間もいない、という時代が来そうだ。そうなれば豊富な知識や技を元に根気よく教えられる者は……あいつ、AIしかない。積み重ねられた伝統と歴史を更々もたぬAIが今一度伝統を人に指南する日がいつ来てもおかしくない。また、現代人が確実に身につけるまで、暫くはAI自身が唄う時代が来るかもしれない。「Alexa、祭り音頭を一日中唄って」みたいな。喉は枯れないし、酒でベロンベロンにもならない。
でも一方で、祭りは最も人間臭い行為だとも思う。AIが見事な祭り音頭を唄えば唄うほど、人はほとばしる気持ちのままに、祭り音頭を身勝手に荒々しく唄いたくなるだろう。そして、祭り音頭は人間に復権を遂げるのだ。まあ、知らんけど、多分。

それにしても、拡声器の性能はあまり進化しておらず、実に今一つだ。AIだけじゃなくて、先進のテクノロジーを駆使しなければならないところはこういうところにもあると思われる。録音した音声を流すにしたって、滅びゆく寸前のMP3プレーヤーからではなく、ハイレゾ音源化して5G通信でストリーミング配信すべきなのだ。ノイズなんかはディープラーニングで学習させたシステムによって、リアルタイムで除去されてベリークリアな美声が町中に軽やかに厳かに響き渡るべきなのだ。
伝統というものをもっとよりよく理解すれば、これから祭りは予測もつかぬ進化を遂げる。まあ、知らんけど、多分。

そして、我が長女monmonはと言えば、太鼓を鳴らし、綱を引き、お菓子をふんだんに食べ、出店はなくとも祭りを存分に楽しんだようだ。次女rinrinも太鼓台にちょっと乗れたようで満足したみたい。
そうこうしているうちにやがてクリスマスへ。次は西洋の祭りに取り組まねば(※ハロウィンは横目でスルー)。

ドンドンドドンドンドコドン
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